古図書館の子守唄 |
| 郊外にあるその図書館は、他のそれと比べると常に人の気配がなかった。 カウンターでは初老を迎えたであろう男が1人、ずり落ちた眼鏡のまま書物を捲る。 書物の匂いと外から聞こえる微かな木々のざわめきに、ぱらりぱらりと一定の間隔を保ち続く古紙の音が相まって子守唄のように聞こえた。 変わらないねえ・・・・・・。 図書館を入り口近くでぐるりと見回して、誰に聞かせるでもなくフランシスは1人ごちた。 久方ぶりに訪れた古図書館は幼い頃の記憶のままだ。外装は勿論のこと、内装もそのままなのではと思うほど変化がなかった。 今日、ここへ来たのは本当になんとなくだった。 特に読みたいものもない。調べ物もない。 足を踏み入れて並ぶ書棚をぼんやりと眺め、そこから適当に本を選ぶ。目に留まったのは推理小説だった。 前・中・後編と続くそれの前編のみを取り出すと表紙を捲って目次に目を通す。 興が乗るような内容かどうかは読んでみなければ分からないがつまらなければ寝てしまおうと、そんなことを考えながら彼は中篇も抜き取って閲覧場所へ向かった。 書棚の隣に少し開けたスペースがあり、6人がけの大きさのテーブルが中央に3つ、窓辺に対して垂直に並んでいる。それから壁際には3人がけのソファが一つ置かれていた。少しばかり古い造りのそれらがこの図書館の閲覧スペースだ。 書棚を抜けて、さてソファは空いているかなと首を巡らせる。 テーブル席にはすでに1人先客がいて、フランシスはその姿に少しばかり目を見開いた。 こんな古図書館に、しかも平日に先客がいるとは、という意味もあったがそれ自体は彼にとって大したことではない。なにより彼を驚かせたのはその先客が最近親しくなった友人というところであった。 漆黒の髪に黒の瞳を持つ、東洋の小さな島国からの留学生。 西洋人に比べ小柄な彼は、非常に勤勉で図書館にいてもなんらおかしくない存在だ。おかしくないが、だからこそ彼はこんな郊外の小さな古図書館でなく、中央近くのそれこそ膨大な資料がある図書館にいる方がしっくりくる。 フランシスは内心首を傾げつつ、声を掛けるために静かに近付く。 気配に気付いたのか、友人はついと頭を上げた。漆黒が揺れる。 『ごきげんよう、桜の君』 やはり相手も少し驚いたようで軽く口を開けた状態で固まっている。 その様子を可愛いなあなんて思いながら彼の国の言葉を使ってみると相手はくすりと笑った。 「フランシスさん、こんにちわ」 「菊は折角の休みも勉強?」 「ええ、少し」 「真面目だなあ。座っても?」 話しながら友人の座る席へと進んだフランシスは相席を求める。その言葉に”菊”と呼ばれた友人は傍らへと広げていた数冊の本を1箇所に纏め、どうぞと隣の椅子を少し引いた。 促されるままに腰を据える。手にしていた本をぱたりと置いた。 「珍しいところでお会いしましたね」 菊は手に握っていた万年筆を離すとフランシスを見た。 「自宅が割と近くでね、久々に何か読もうかと」 「小説、お好きなんですか?」 「寝物語に聞かせてあげようと思って」 「相変わらずですねえ」 くすくすと笑う菊の様子にフランシスは、これはご機嫌だなあと思う。 普段の彼は情事の匂いを少しでも漂わせればその都度困ったように笑うのだ。彼の国の風潮なのだろう、咎めはしないが自分からその手の話はしないし聞かない。その彼が今日は静かに笑っているのだ。それこそ珍しい。 「面白かったら教えてください」 「寝物語用だよ?それなりの演出で教えてあげたいなあ」 「!」 機嫌の良い友人を前にフランシスは調子に乗る。 目の前の黒髪をひと房掬い、まるで女を口説くように囁くと、流石にこれはまずかったようで頬を赤らめてしまった。 うん、東洋系はオトコノコも可愛いね。東洋の神秘だ。 などと、目の前の人物が聞けば心外だと憤りそうなことを心の中だけで呟く。 「・・・・・・っ結構です」 小さくそれだけ言うと菊は再びペンを手にとり慌しく本を捲くった。 その様子に、あ〜お兄さんふられちゃった、と軽く返してこの話はここでおしまいと意思表示しておく。 半分本気だったがそれはフランシスだけの秘密だ。 そのとき、ふと、手元のノートが気になった。こんな辺鄙な図書館で何を勉強しているのか。フランシスは邪魔にならない程度に肩を寄せた。 見ると物理や医学の単語、果ては経済の変動が綺麗な文字で綴られている。しかし、内容に統一性がない。 これはなんだ? 「調べ物をしているのではないのです。私の語学力はまだ未熟ですから、こうしてこっそり覚えているのです」 疑問が顔に浮かんでいたようで、フランシスの様子に菊は照れたように口を開いた。 「お恥ずかしい限りです」 「いやいや、恥ずかしいことじゃないでしょ。それに未熟なんて。むしろ完璧なんじゃない?」 菊はまったく違う語圏からの留学生だが、フランシスが知る限り彼の語学力は会話にも勉強にもなんら支障は出ていない。発音も良い。改めて学び直す必要はないほどに、だ。 それに対して菊は目を伏せ首を横に振る。そうして開いた本にそっと手を乗せた。 「このように専門的なことになると・・・・・・まだ分からない部分が多いのです」 「・・・・・・」 「折角こちらに来ているのですから、吸収できるものは吸収していかないと勿体無いでしょう?」 「・・・・・・真面目だね」 フランシスは東の島国の妙な謙虚さに対してどうかと思うときもあるが、菊の前向きな思考は好ましいと思っている。 互いに顔を見合わせて柔らかく笑った。 「よし!それじゃあお兄さんが分からないところを教えよう」 寝物語は断られちゃったけど。と、ウィンクをしてフランシスが申し出ると菊はぱちくりと目を瞬かせた。 まさかそんな申し出があるとは思わなかったのだろう。忙しなく顔と手を振っている。 「そんな、こちらのことは気にせずに」 「遠慮しないで。俺の語学力もなかなかのもんよ?まあ、1番は我が母国語だと思ってるけどね。どこが分からない?」 そう言いながら身を寄せる。 列を乱さず深いブルーインクで書き込まれた文章は持ち主の性格を表しているようだった。 そのとき、覗き込んだノートの枠外、端のほうに書き込まれている文字が目に入った。 ノートの枠線に沿って書かれている文章の中に、斜めに書き込まれた単語類。それらは1箇所だけではなく数箇所に点在していた。 同じブルーインクだが筆跡が、違う。 フランシスは無意識にそれをなぞる。 「・・・・・・」 「フランシスさん?」 急に黙り込んだ友人に菊は首を傾げた。だがその呼びかけはフランシスの頭の上を上滑りしていく。 この筆跡には見覚えがある。それはもう嫌と言うほどに。 「―――ひょっとして、誰かにもう教えて貰ってる?」 「え?」 「菊の字じゃ、ないよね」 これ、と見覚えのある文字を指し示せば、東洋の友人は「あ、」と声を漏らしてから微かに顔を綻ばせた。 その表情を捉えてしまってフランシスは、そういえばと思い起こす。 この東洋人はあのアルフレッドとも友人だが、その口から綴られる言葉は流暢な”クイーンズイングリッシュ”ではなかったか。 「―――なんでお前がここにいるんだ?」 「あー・・・偶然?」 「カークランドさん」 書棚のほうから突然、低い、それは低い声が聞こえた。 その声に寄せていた顔を上げると、そこには青年が不機嫌を隠さない様子で立っていた。 くすんだ金色の髪に深い碧色の瞳の、フランシスにとってはすでに見飽きている顔だ。 ブックバンドで纏めた本が数冊、それを片手に青年はフランシスを半眼で睨みながらずんずんとテーブルに進んでくる。 「菊、変なことされなかったか?」 「え?」 「なにそれ心外だなあ」 「黙れ髭。つーか近寄りすぎなんだよ、菊から離れろ」 目の前まで来た青年のその言い草に、フランシスは気に障るよりも先に違和感を覚えた。 コイツ、今・・・・・・。 青年とフランシスは腐れ縁以上友人未満の複雑な関係だ。 随分昔からの知り合いでお互いに一応認めている部分もあるが、顔を合わせれば笑顔で挨拶―とまではいかない。 どうにもうまが合わない。揉めた回数なら大小合わせて星の数ほどだ。 そんな事情があるものだから青年の不機嫌さは、予想外の場所で嫌な奴に会ったためだろうと思っていた。 だが、最後の言葉は。 『菊から離れろ』 青年は未だにフランシスを睨んでいる。 その視線を受け止めつつ、最後の言葉を頭の中で咀嚼する。彼の中に一つの式ができあがってきた。 これは。 その式の意味を理解した途端、フランシスの口端は自然と上がった。傍から見るとにやりとした、実にいやらしい顔だ。 これは、ひょっとすると、いや恐らく間違いなく、この腐れ縁の男を突付く材料になる。 そう思い至ったフランシスは頬が緩むのを止められないし、止めるつもりもない。 へえ、こいつがねえ・・・・・・とにやけた顔のまましげしげと見ていたものだから、対する青年の顔には不快の色が広がった。 それを確認して、試にと、隣に座る小柄な友人の肩に手をさっと回し体ごと引き寄せた。 「仲がいい証拠じゃない」 ねえ、菊?と。 そう問えば、抱き寄せられた当人はスキンシップに慣れていないせいか、フランシスさんっと慌て、目の前に立つ青年は机にバンッと本を叩きつけた。 「てめえなにしてやがるこの歩く猥褻物!触んな!!」 実に分かりやすい反応だ。 目を吊り上げて顔を赤くしているあたり、怒り心頭といったところか。 フランシスは青年のある意味素直な行動と言動に対して更に笑みを深めた。 「単なるスキンシップだろ〜そんなにカリカリすんなよアーサー」 「あ、あの・・・・・・」 「どこがスキンシップだ、いやらしい目で笑ってたぞ!!」 「俺は美しいもの可愛いものにはいつもでもこうだぜ?お前だって知ってるだろ。第一これも挨拶の一種さ」 「菊の国にはそんな習慣すらねえよ!」 フランシスにとってはこの上なく楽しい状況だ。 今まで、衝突しては幾度となく煮え湯を飲まされてきた、なんとも小憎たらしいこの腐れ縁の青年を追い込むまたとない機会だ。 青年の怒りをするりとかわして、”決定”という名の穴に誘い込んでいく。 普段の彼ならばフランシスのにやけた顔に警戒心を持って接するだろうが、己の言葉の揚げ足を取られている状況と目の前の光景にそこまで頭が回らないようだった。 そうしてついに自ら。 「分かったら菊に触んな!!」 語るに、落ちた。 「っ、ぶっ」 フランシスは耐え切れず噴き出した。 コイツ、マジだ。 こんなにも、あっさりと、ぺろりと本心を吐いた。 ついには腹を押さえて笑い出す。そのことでフランシスの体は一旦菊から離れる。 言い争いをしていた相手が突然腹を抱えて笑い出したことに、激昂していたアーサーは気勢を挫かれた。 眉を顰めて、おい、フランシス?と不審気に声をかける。フランシスは机に突っ伏して肩を震わせながらも堪えていたが無駄な努力のようだった。 先ほどから菊・菊・菊と連呼していることに、コイツは自分で気付いているのだろうか。 きっと無自覚だ。 なぜだかそう確信できて、彼の笑いの虫は治まるどころかますます暴れだしてしまった。 「おい、いい加減に・・・・・・」 「あー悪い悪い」 ひとしきり笑い、なんとか笑いの虫を治めて、それでも涙目のままフランシスは顔をあげる。 見えたアーサーの顔はまだ不機嫌の色を残していたが、それでも彼が菊から離れた為かそれ以上噛み付いてはこなかった。 アーサーは短く息をついて、菊の正面に座る。それから嫌味たらしく言葉をぶつけた。 「もう少し笑い続けていたら病院に送ってやれたのに。残念だ」 「悪かったって。謝ってんだろ」 「それなら菊に謝れ」 また、菊、と。 これはもう無意識で口にしているのだろうと結論付けたフランシスは、再び暴れだしそうな笑いの虫を腹に力を入れることで宥める。 この男をこれ以上怒らせては正真正銘の病院送りになってしまう。なんといっても喧嘩は滅多矢鱈と強いのだ。今でこそ落ち着いているが、その強さと容赦のなさは内にそのまま残っている状態だ。 引き際が肝心と、フランシスは隣に向き直った。 「そうだね、ごめんね菊ちゃ・・・・・・」 だが不自然な箇所で言葉が止まる。当の菊が、ぽかんとした顔で正面を見ていたのだ。 視線は声をかけたフランシスではなく、正面に座るアーサーへと固定されている。 アーサーも、自分が注視されていることに気付いて首を傾げた。 「菊ちゃーん?どうしたんだ?」 「菊?」 「・・・・・・お2人とも友達だったんですね」 いかにも口から滑り落ちましたといった様子で、それから2人を見比べて淡い笑みを浮かべた。菊の中では完全に”フランシスとアーサーはお友達”という関係が成り立ってしまったようだ。 2人からすれば、とんでもない勘違いだ。フランシスは苦笑いを浮かべて口を開く。 コイツとお友達など、冗談でも止めて欲しい。 「いや、友達っていうかね―――」 「っき、菊っ、いい今のは、ちがっ」 するとそれに被さるように、アーサーが突然立ち上がって声を上げた。 なんだと思って正面を見れば、彼は菊に向かって顔色を赤くしたり青くしたりと大忙しだ。よほど焦っているのか碌に言葉を紡げていない。菊もその様子に黒い瞳を瞬かせている。 「コイツとは腐れ縁だっ、だからあんな言い方普段はしないぞ!菊には絶対に―――っ」 菊に見つめられているせいか、慌てているせいか、アーサーの顔色は次第に青よりも赤の割合が長くなり終いには首まで赤くなった。 肌が白い彼の、その変化は非常に目立つ。 フランシスは机に肘をついて手で口元を隠した。 うわ、コイツ真っ赤だよ、と腐れ縁の珍しいほどの慌てっぷりをにやにやと眺めている。 しかし。 こんな彼を見たのは初めてだ。こんなアーサー・カークランドは見たことがない。 フランシスは、これは、本当に面白いと思った。 「お前少し落ち着けよ」 「てめえが言うな!誰の所為だと―――っ」 「あの、お2人とも、ここは、図書館ですから」 「・・・・・・あ、す、すまない」 菊が控えめに、しかし言外に静かにするようにと促すと、アーサーは我に返ったのか顔を赤くしたままそれに素直に従った。 照れ隠しなのだろう、軽く咳払いをして腰を下ろす。 そして、傍らに放置されていた数冊の本を手繰り寄せると菊と同様にぱらぱらと捲り、銀色のブックエンドが挟まっているページで手を止めた。 黒にも見える深い緑色の柄をした愛用の万年筆を取り出すと、最後に苦虫を潰したような顔でフランシスを見た。 「―――いつまでいるんだよ」 「まだいるぜ?俺も来たばっかだしな」 これから読むんですーと、大して興味もないくせに、取り出してきた小説を手に持って軽く振ってみせる。 普段のフランシスであればこの腐れ縁と相席など真っ平御免だし、どうしても目を通しておきたいものでもないわけだからそうそうにこの場を離れているところだ。 だが今日はいいネタが目の前にぶら下がっているのだ。帰る気はまったく起きなかった。 アーサーはふん、と鼻を鳴らして邪魔はするなよと釘を刺す。そうして、菊のノートを引き寄せて無言でチェックを始めた。 もっともフランシスにとっては、そんな釘はどこ吹く風だ。 さてどう邪魔してやろうかと考えながら腐れ縁の男を眺めていると横から窺うような気配を感じた。 視線を横に流せば、菊が、困ったように眉根を下げて自分達を見比べている。2人の、いや、主にアーサーの雰囲気は刺々しいままで、どうしたものかと思案しているようだ。 自分達はこの空気にとうに慣れ親しんでいるのでこれくらいのことはお互い気にしてないのだが、この東洋の友人は―――。 ―――気を使う性格だからなあ。 適当に開いた本で口元を覆い隠しフランシスは視線を窓の外へと流した。さて。 アーサーを邪魔するのはとても気分が良いのだが、菊が困るのは見たくない。 そう思うくらいには情が入っている。 視線を戻すと、戸惑いを覗かせている黒の双眸とかち合った。反射的に、だが安心させるようにウィンクをすると、不安そうな瞳は再び微かに開かれる。 虚を突かれたような顔が思いのほか幼くて可愛くて、そんな顔が見られたことに満足した。 まあ腐れ縁を突付くのは次回でもいいかと思えてしまうほどに。 これ以上突付くのはやめておくよ、お兄さんは愛の国の人だから。菊のためにね。 「菊、ここの綴りは―――」 「あ、はい」 そう決めてフランシスは2人の声を背景に、静かに本を捲った。 |
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