古図書館の囁き |
| 菊の英語は綺麗だね。 フランシスがそう告げると、菊と呼ばれた東洋人は目を瞬かせた後ありがとうございますと言った。 それから緯線を下げてふわりと笑い、静かに言葉を紡いだのだった。 「カークランドさんのお陰です」 「騙されてるよな」 「・・・・・・何しに来たんだよ」 いつもの古図書館の前、木々の間に置かれてあるこれもまた古びた木造のベンチで本を捲っていたアーサーはふらりと現れた腐れ縁の男に顔を顰めた。 今まで高揚していた気分が急激に冷えていくのが分かる。 今日、こうして午前中からベンチに座っているのは菊と待ち合わせをしているからだった。まだこの街に慣れていないという彼を案内する約束になっている。 ようやっと出来た気の許せる友人と2人で街を歩くことにアーサーは少なからず浮かれていた。 どこから回ろう。店の位置もよく把握できていないようだから、まずは日用品が手に入る大通りあたりから歩こうか。 本の文字を流し読みながら頭の中で予定を立てていく。 そこへ、かさりと芝生を踏む音が聞こえた。 てっきり待ち人だと思い顔を上げれば、立っていたのは予想外にもこの腐れ縁の男だったのだ。 それだけならまだしも人の顔を見るなり挨拶も飛ばして先ほどの台詞だ。 機嫌が悪くならないわけがない。 とっとと消えろ。 アーサーは胸の内で呟いて、不機嫌を顔に乗せたまま視線を本へと再び戻した。 しかし男はこれしきの応対で立ち去るほど細い神経ではなく、聞かぬ相手に同意を求めるように言葉を続ける。 「いや、俺は騙されてると思うね」 一体なにが騙されているというのか。先ほどと大差のない発言にアーサーは頭痛と苛立ちを覚えた。 ただでさえ菊と会わせたくないというのに。 完全無視を決め込むのが一番なのだが、そうしたところで男は気にせず勝手に話を進めるだろう。長年の経験から分かってしまう。 アーサーは適当にでも付き合って話を終わらせるほうが早いと結論付けて、それでも普通に返せる気分でないので感情のまま吐き捨てるように返した。 「話が噛み合ってねえよ髭。―――俺は誰にも騙されてない」 お前に心配されるほど落ちてもねえ、と付け加える。 すると男はここで初めて表情を歪めた。 「お前のことじゃねえよ、なんで俺がお前の心配しなきゃなんねえの気持ち悪い」 「ぁあ?だったら初めから主語を言え。大体なんでここにいんだよ」 男のいつも通りの言い草がいつも以上に癪に障り、顔も上げずに対応していたが次の一言を聞いて視線だけを上へ流した。 「―――菊が」 「菊・・・・・・?」 視線を向ければ男は思いのほか神妙な顔つきをしていてアーサーは更に眉を顰める。 コイツがここまで真面目な顔をするということは本当に深刻な話、なのだろうか。 菊が、どうしたというのか。 「騙されてるぜ」 静かに告げられた当初と変わらぬ内容に、息を飲む。ベンチから勢いよく立ち上がり男の襟元を片手で掴んだ。 本が地に落ちる。 菊、が。 「っ誰に?!」 「お前に。」 ドゴッ 「ちっ浅かったか」 利き腕じゃないと威力が落ちるな。もう一度やり直すか。 アーサーは襟元を掴んでいた利き腕とは逆の、男に叩き込んだ手をしげしげと見ながら恐ろしいことをあっさりと言ってのけている。男には目もくれない。 男は彼の足元で、腹を両腕で庇うようにして蹲っていた。 「っ、まて、おま・・・っみぞ・・・ち・・・・・・」 なんとか声を出して切れ切れに抗議する。それを聞いたアーサーは、今気がついたと言わんばかりに片眉をひょいと上げて視線を下げた。 「ああ、そういえば。何しに来たんだフランシス」 「おまえ、その流・・・れ・・・・・・お・・かし・・・・・・」 「何しに、来たんだ?」 2度目の問いにフランシスは即座に白旗代わりの両腕を上げた。 顔を見なくても声だけで分かる。彼はきっと爽やかに笑っているが目は、笑って、いない。 「・・・き・・くちゃんナンパし・・・に・・・・・・」 ゴリッ 「言い残すことはないな」 「それおかしくねっ?ねえおかしくねっっ?既に断定ってなに?!てかやめて潰れる!!」 「潰れろ世の為だ」 「そんなわけあるか!一体何人の女の子が泣くと思ってんだ!第一言い残すことはねえけど菊ちゃんとヤリ残したことなら・・・・・・っ」 「思い残すことはないな」 「うそごめん悪かっぎゃああああああああ!!」 どうしてこんなに凶暴な奴が”いい人”なのか、菊、君は騙されてるよお兄さんのところへおいで。 フランシスは潰されかけた個所を庇うように座り、胸中で呟いた。あくまで胸中で、だ。 「ホントに使い物にならなくなったらどうしてくれんだよ・・・・・・」 彼のぼやきに、自業自得だと返してアーサーは地面に落とした本を拾った。張り付いた草切れをぱたりぱたりと落とす。 その動きを目の端に捉えてフランシスは上体を起こした。 両目を閉じて溜息をつくと、ベンチの背にどさりと凭れかかる。両腕をその背凭れに引っ掛けて頭を緩く左右に振った。 「だって騙されてるだろう?なんで”カークランドさんは優しい人”なんだよ。お前どんだけ猫被ってんの?」 心底分からない、といった顔だ。 「煩い」 フランシスの言葉を一言で切り捨てたアーサーは、懐から取り出した愛用の懐中時計を開けて時を確認した。 もうすぐ菊が来る時間だ。 ちらりとフランシスを見遣るが、彼に立ち去る気配はまったくない。ゆったりとベンチに腰掛けたままだ。 迎えに行くか。 ここで落ち合う約束だったが、そのとおりにしていては街の案内にフランシスが何食わぬ顔でついて来るだろう。 フランシスはどう見ても菊を気に入っている。それはまったくの事実で本人に言わせれば友人よりちょっと良いよね、という具合で気に入っている。 だがアーサーはそれが気に入らない。他の人間ならいざ知らず、彼にとっては大切な友人である菊が万年発情期男に狙われているなんて、気が気でないのだ。 悲しいかな、この男の守備範囲をなまじ知っているだけに。 ぱちんと、小気味よい音がアーサーの手から聞こえた。閉じられた懐中時計を懐に仕舞い、図書館から続くたった一つの道へと足を向ける。 フランシスは僅かばかり目を広げた。 「? 帰んのか?」 「・・・・・・」 「ああ、お迎えか」 分かってんなら聞くなワイン野郎。 内心で悪態をつきながら、かかる声を無言で流してその場を離れる。そんな相変わらずの姿にフランシスは傷付くでもなく呆れたように言葉を続けた。 「あーあ、菊が可哀想だぜ、なんでこんな似非紳士の元ヤン―――」 しかしそこまで言ってぷつりと言葉が止まった。 アーサーが立ち止まり、振り向いている。 ヤバイ、突付きすぎたか。 フランシスは背中に嫌な汗が流れるのを久々に感じた。 「―――言ってないだろうな」 普段罵り合っている時の比ではない、それこそ地を這うような声で問うてくる顔は明らかにあの頃のものだ。 これじゃあ”元”どころか”現役”じゃねえかと、フランシスは緊張した面持ちで見返した。 「言ってねえよ」 「―――」 「本当だ。この先も言わない―――言わねえけど・・・・・・」 そこで一旦言葉を区切って、肩を竦める。 「その面はどうにかしろよ。そんな顔してたら俺が言わなくても、いずれ菊は気付くぜ?」 「・・・・・・」 菊、の一言が効いたのかアーサーはすいと視線を外した。両目を瞑り、大きく息を吐き出す。 そうして先ほどよりは幾分か落ち着いた様子でフランシスを見遣った。 「お前が言わない確証もないけどな」 それでも不機嫌な面持ちは崩さない。深い碧が細く眇められたままで、つまりそれは普段の罵り合い程度に戻っただけだった。 しかしフランシスはそれで安心できたのか、緊張を解いていつもの調子で口を叩き始める。 「言わないって」 「どうだか。お前が俺に忠告なんて裏があるんじゃないか?」 「素直じゃねえな、ったく。別に俺だってお前が嫌われようとどうでもいいんだよ。むしろ嫌われろ」 「なんだと、てめ・・・・・・っ」 「ただ、菊のあんな顔みたら、言えねえなって思ったんだよ」 フランシスの言葉に、思わず掴みかかろうとした手は中途半端な形で止まる。フランシスはそのまま宙を見ていた。 何かを、いや、間違いなく菊との出来事を思い起こしているのだろうがアーサーはその顔が気に食わない。 両腕を尊大に組んでフランシスを見下した。 「? ―――あんな顔って、なんだよ」 無意識なのだろう指先でトントンと腕を叩き、さっさと先を話せと要求する。するとフランシスは口端だけを器用に上げてアーサーに視線を流した。 ああ、コイツは俺をイラつかせる天才だ、その髭今度こそ全部引っこ抜いてやろうか。 腐れ縁の一挙一動にアーサーの思考は物騒な方向へと傾いていく。 一方のフランシスは彼の機嫌などお構いなしに、なおももったいぶるように言葉を重ねていく。 「気になる?聞きたい?」 「別に」 「まあまあ、聞かせてやるから。菊のことだぜ?気になんだろ〜?」 「べべつに気にならねえよっ」 ”菊のこと”と言われて動揺し思わずどもってしまったが次には、お前が思わせぶりな言い方するからだと怒鳴る。 本人はそれで誤魔化したつもりなのだろうが、生憎そんな努力は腐れ縁にはまったく通用していない。フランシスはくつくつと喉を鳴らした。 そうして、この間な、とようやく本題を口にした。 「菊の英語は綺麗だ、って誉めたんだよ。随分完璧なクイーンズイングリッシュだし?」 「・・・・・・そのことか」 フランシスから語られた菊との会話の内容に、なんだそんなことかとアーサーは力を抜く。 2人が出会ったとき、菊の語学力はある程度高いものだった。留学してくるほどなのだからそうだろう。 単語も文法も問題はなかったが、ただ聞き取りと会話力はイマイチでこの古図書館で本を読んで練習していたのだ。 そこにアーサーは偶然居合わせた。 黒髪黒目の、ひと目で東洋人だと分かったが、図書館でなにをぼそぼそと言っているのかとその様子を訝しげに見ていた。 図書館は静かにしておくものだろうと半ば冷めた目でもあった。いくら、自分達と司書以外誰もいなくても、だ。 お陰で意識せずとも小さい音声をすんなり拾うことができて、その喋りの拙さに何度か本を取り落としそうになった。 その度に東洋人もどこかおかしいと思っているようで、首を傾げては何度も同じ言葉を繰り返した。 繰り返すが、訂正する人間もいなければ手本を示す人間もいない。当然、上達するわけがない。 おまけにところどころ妙な英語(彼の弟が使っているソレだ)が混ざっていて、それが余計にアーサーの耳についたのだ。 そうしてついに、何度も何度も繰り返される拙い発音に痺れを切らしたのは東洋人本人ではなく、英国人のアーサーの方だった。 「当然だ。俺が教えているんだからな」 あの日から暇を見ては菊の発音練習に付き合った。今では専門書を読めるようになりたいという申し出にも応じている。 自分でも赤の他人だった相手に、しかも東洋人におかしいんじゃないかと思うほどの献身さだが、菊の隣は心地が良いのでよしとしている。 だから、上達は当然のことだ。 だがそのことと、フランシスの言う”菊に言えない”は、どう関係があるのか。 フランシスを見据えて無言で先を促すと、彼はつまらなそうに眉を下げて肩を竦めて見せた。 「そうしたら菊は、”カークランドさんのお陰です”って、嬉しそうに笑ってさあ」 「―――」 ―――え? 「あーんな可愛い顔されちゃ、”アーサー・カークランドは元ヤンなんですー”なんて言えるわけねえよ」 残念そうにそう続けるフランシスの前で、―――その菊の言葉に。 アーサーはすっかり固まった。 目を見開いて、しかしそれは言葉を続ける腐れ縁の男を映していない。頭が真っ白になるとはこういうことかと実感するほどに思考はストップした。 菊が、なんと言ったのか。 なんとか動いた思考回路で、フランシスの言葉を反復する。 「・・・・・・」 「菊も趣味悪いぜ、よりにもよって―――」 「・・・・・・・・・・・・」 じわりじわりと、その言葉と、見てはいない菊の顔が浮かんでくる。震える手を口元に持っていく。 ―嬉しそうに笑って― まずい。 まずい、 まずい。 アーサーは胸の奥からこみ上げるものを感じて目を伏せる。顔はすでにかなり熱くなっているのを自覚していたが止められそうになかった。 もうすぐ菊が来るというのに、こんな状態でどう顔を合わせれば良いのか。顔を合わせれば間違いなく平素でいられなくなる。今この時でさえ、こうなのだから。 柔らかい好意など向けられたことがない彼の頭の中は嬉しさと気恥ずかしさでどうしようもなくなっていた。 その気持ちをどう鎮めていいのかさえ分からなかった。 「・・・・・・うわ、お前気持ち悪い・・・・・・」 そんな、耳まで茹で上がった彼の顔を正面からばっちり拝んでしまったフランシスは、自分の発言のせいだということをしっかり棚に上げて顔を歪め。 取り合えずこんなタイミングでこんなことを伝えにきたコイツは間違いなく確信犯だとアーサー自身も確信し。 「うるせえ!消えろ髭!!」 目の前の腐れ縁を一発殴っておいた。 |
|